ポストヒューマニズム 本
ニック・ランドにとっての導きの糸になっていたのはドゥールズガタリのアンチオイディップス SF作家ロジャーゼラズィの光の玉で、革命的変革を求めるグループが神々が独占していたテクノロジーを開放することで社会をより高いレベルへ進めようとする。この集団を加速主義者とよんだ
結論先取的に言えば、二ー世紀になって社会全体の「ポスト・ヒューマニズム的転回」が起こっている。すなわち、情報テクノロジーやバイオテクノロジーによって、人間を中心に据えた西洋近代社会が大きく揺らいでおり、こうした「ポスト・ヒューマン的状況」に対してどのような態度をとるかという問題を、現代のいかなる哲学者も避けて通れなくなったのである。 環境分野からの意味においてもポストヒューマニズムが謳われる
現在のネット化革命を通して、現代社会における人間の共生は新しい基盤の上に立たされている。現代社会が、ポスト文芸的、ポスト書簡的に(postepistolographisch)、そしてそれゆえにポスト人文主義=ポスト人間的に規定されていることは容易に証明できる。・・・・・・学校・教養モデルとしての近代人文主義の時代は終焉した。
これは、ペーター・スローターダイクが「「人間園」の規則』において論じたものだが、必ずしも読みやすい文章とは言えない。 それでも、主張のポイントは明確であろう。現代のデジタル情報通信社会の成立によって、近代の「人文主義」が終焉し、ポスト・ヒューマン的状況にいたったことが述べられている。 一九世紀も終わりに近づくころ、ニーチェはニヒリズムの到来を高らかに宣言している。
私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来たるべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。この歴史はいまではすでに物語られうる。なぜなら、必然性自身がここでははたらきだしているからである。(「権力への意志」) ニーチェが「次の二世紀」と語っているのは、言うまでもなく二〇世紀と二一世紀のことである。
しかし、「虚無主義」と訳したところで、多くの人はあまりピンとこないかもしれない。
そこで、ニーチェ自身の説明を確認しておきたい。彼はこんな風に述べている。
ニヒリズムとは何を意味するのか?I至高の諸価値がその価値を制奪されるということ。目標が矢けている。「何のために?」への答えがけている。(権力への意志
昔から、真・善・美というのは、人間にとって崇高なもので、学問や道徳や芸術によって追来すべきものだと考えられてきた。だが、先に挙げた問いは、現代人にとって自明なものではない。
たとえば、「絶対に」などとは言えない。時と場所によって、それらの基準は変わるだろうし、人によっても意見は一致しない。早い話、何を正しい、よい、美しいと感じるかは、社会や文化によって一様ではないし、人の好みは「十人十色」だ。もし、あなたがこう考えるとすれば、ニーチェの予言は的中していると言えるだろう。
つまり、社会主義が崩壊し、世界中が自由民主主義一色になった「歴史の終わり」では、人間が食欲や性欲といった動物の基本的な欲望のままに生活し、刺激や享楽を求めて生きていく「動物化」が起こっている。それこそが「人間の消滅」であると、コジェーヴは言っているのである。 コジェーヴは第二次世界大戦後にアメリカを訪問して、その地の人々の生活を見たことで、「動物化」の具体的なイメージをもったようである。
翻って、より現代を生きる私たちはどうだろうか。その答えは、インターネットの世界をのぞき込めば、すぐに明らかになる。「シニシズム」と呼ばれる「冷笑的/嘲笑的」な態度が蔓延していることに気づくだろう。 シニシズムは、たとえば日本では「左翼」や「リベラル」に対する嘲笑的な批判として表れている、と言えばわかりやすいかもしれない
こうしたシニシズムはインターネットが発達すると目立ってきたが、そもそもいつから始まったのだろうか。あらかじめ指摘しておけば、現代のシニシズムの哲学的な創始者がニーチェであることは、間違いない。
彼は「権力への意志」の冒頭部分で、次のように書いている。
大いなる事物の望むところは、それについてひとが沈黙するか、大いに語るかである。
大いにとは、すなわちシニカルにまた無垢にということである。
台頭する自然主義
ポスト・ヒューマニズムと密接なかかわりを持つ思想の潮流としては、近年大きく台頭してきた「自然主義」も見逃せない。
自然主義は簡単に言うと、「人間は自然科学的に解明できる」とする態度のことで、脳神経科学や生物学、情報科学などの認知科学の発展とともに、現代のコンセンサスになりつつある。
代表的な提唱者であるダニエル・デネットは、二〇〇三年に出版した「自由は進化する」の中で、次のように語っている。
わたしの根本的な視点は自然主義だ。哲学的な探求は、自然科学的な探求を超越したものではなく、それに先立つものでもない。真実を求める自然科学の試みと手を組むものであり、哲学者のやるべき仕事は、衝突しがちな視点の見通しをよくして宇宙についての統一的な見方に統合することだ。これはつまり、きちんと勝ち取られた科学的発見や理論の成果を、哲学的理論構築の材料としてちゃんと受け入れるということであり、それにより科学と哲学の両方についてまともな情報にもとづく建設的な批評が行えるようにする、ということだ。
実在論から出発しよう。この言葉は人によってさまざまなことを意味するが、哲学でふつう言われる意味は比較的はっきりしている。つまり実在論者とは、人間の心とは独立した世界が在ることに賭ける人々だ。実在論を否定する簡単なやり方は、その反対の立場つまり観念論を採用することである。観念にとって、実在は心と独立ではない(思弁的実在論入門)
ここで説明されているのは、認識論的な意味での対立であり、実在論(人間の心とは独立した世界が在る)と観念論(実在は心とは独立ではない)が対立している、ということだ。わかりやすく言えば、人間がモノを認識するとき、心の中で観念(idea)を抱くのだが、その観念とは別にモノ(reality, world)の存在を肯定するのが「実在調」(realism)、観念とは独立したモノは存在しない、とするのが「観念編」(idealism)である。
相関主義の否定で共通していた。
メイヤスーによれば、カント以後の哲学はすべて現象学であれ、分析哲学であれ、ポストモダンであれ)「思考と存在の相関のみにアクセス」できると考えてきた。つまり、思考(意識)とその対象との関係を問うという形で、議論されてきた。だが、彼はこうした「相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向」を相関主義と呼び、その超 克が必要だと訴えるのである。
私たちは、現代人の存在論的要請、存在するとは相関項であることであるという要請と手を切らなければならない。反対に私たちは、思考がどのようにして非-相関的なものへとしすなわち贈与されずに存在しうる世界へとーアクセスできるのかを理解するべく試みなければならない。(「有限性の後で」
メイヤスーは相関主義をいくつかのモデルに分けて、議論を展開していく。それをハーマンは、「メイヤスーのスペクトラム」と呼んでいる。 具体的に言えば、「素朴実在論」の対極に精神の内にすべてを包摂するような「思弁的観念論」を置き、その中間に二つの相関主義を位置づけるのだ。上のように図解してみるとわかりやすいだろう。
メイヤスーによると、「弱い相関主義」はカント、「強い相関主義」はハイデガーやウィトゲンシュタイン、「思弁的観念論」にはヘーゲルやニーチェなどの思想が対応している。このうち「強い相関主義」を通じて、自分の思弁的唯物論へ至る道を考えようというのがメイヤスーの戦略である。 だが、そもそもこうした相関主義の区分けについてさえ、思弁的実在論者たちの中で、コンセンサスが得られているわけではない。
ニック・ランドは、一九九四年に発表した論文「メルトダウン」において、そこからの文章を引用している。 どのような革命的の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々にすすめているように、世界市場から退いて、ファシスト的な「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。そうではなく地の方向に進むことなのか。すなわち市場の、脱コード化の、脱領土化の運動の方向にさらに遠くまで進むことなのか。というのも、おそらく、高度に分裂症的な流れの理論や実践の観点からすれば、もろもろの流れはまだ十分には脱領土化してもいないし、脱コード化してもいないからである。過程から身を引くことではなくて、もっと先に進むこと。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」。ほんとうは、このことについて私たちはまだ何も理解してはいないのだ。(「アンチ・オイディプス」) 「脱領土化」「脱コード化」「分裂症」といったドゥルーズ=ガタリの用語に慣れていなくても、この文章を引用したランドの意図は、容易に読み取ることができるだろう。欲望に規制をかけ、動きを減速させることではなく、むしろニーチェが言うように「過程を加速すること」ーここには、すでに加速主義が明確に表現されている。
ドゥルーズ=ガタリがイメージ豊かに語った「人間が動物になること」は、人間が「脱人間化」することだと理解していい。人間の欲望は、人間の中だけで完結するのではなく、たとえば機械や動物やコンピュータなど、人間以外の多様なものと連結しうる。だとすれば、欲望の「脱コード化」した流れが向かうのは、「人間を超える」ことだと言えるだろう。
家族や国家といった人間社会のうちに欲望をコード化することではなく、資本主義における欲望の多様な流れを加速化することしそうすることで人間を超えていくこと、それがドゥルーズ=ガタリの構想した加速主義である。そして、ドゥルーズ=ガタリの思想を継承したニック・ランドの思想も、この流れを継承していることは明らかで ここで等式をつくれば、近代=啓蒙=光 進歩主義ということになるだろう。こうした考えを根本的に、覆そうとしたのが、「暗黒の啓蒙」なのである。 ランドは、近代の出口(超近代)を求めて進歩主義を否定し、暗黒啓蒙を主張する。なぜ進歩主義を批判するかというと、ランドによれば、進歩主義は民主主義と結びついているからだ。一般には、「民主主義と『進歩的な民主主義」は同義である」と思われている。近代政治の目標は、民主主義が実現されることであり、それが社会的進歩と見なされる。 民主主義が阻害されると、遅れた社会と言われるだろう。こうして近代の啓蒙は、民主主義の実現に目標を置いてきた。
これに対して、ランドは民主主義に積極的な価値を認めていない。近代社会では一般に、自由と民主主義は親和的なものだと考えられている。ところがランドは、自由と民主主義を対立的であると見なし、民主主義を拒否して自由を擁護する。そして自由にもとづいて、近代の出口へと向かうわけである。
従来、アメリカでは、「リベラルVS 保守」が基本的な対立構造を形づくってきたが、それらに代わって大きな影響力を持つようになったのが、この新反動主義である。トランプが大統領になるに際して、一役買ったのもこの新反動主義と言われている。
では、新反動主義は、どのようなことを主張しているのか。基本的には、民主主義を批判して、自由を擁護するリバタリアニズムにもとづいているが、具体的な政策としては「新官房学(neo-cameralism)」を提唱している。 これは、一八世紀プロイセンのフリードリヒ二世が行なった統治法から命名されたものだ。民主主義のオルタナティブとして提案されたものであるが、次のように説明されている。
ネオカメラリスト
新官房学主義者からすれば、国家は一つの国を所有するビジネスとなる。他の大規模なビジネスと同様に国家は、形式上の所有者を、それぞれが国益の正確な一部分に対応するような流通性のある株式へと分割するかたちで経営されるべきものとなる(よって首尾よく機能している国家は、多くの収益を生むものになる)。それぞれの株式には一票の投票権があり、株主は経営陣の雇用や解雇を決定する役員を選出する。
このビジネスにおける顧客はその住人である。収益を
ネオカメラリズム
生み出すものとして経営される新官房学的な国家は、他のビジネス同様その顧客にたいし、効率的で効果的
なサーヴィスを提供する。したがって、統治の不振は経営の不振を意味することになる。(「暗黒の啓蒙書』
ここでポイントになるのは、国家の運営をビジネスとして捉えることである。企業が利益を生み出すことを目指すように、国家の運営でも収益を生み出すことが重要になる。そのため、新反動主義では企業の運営と同じように、国家の運営でも民主主義は採用されないのである。
また、モールドバグは民主主義を「大聖堂(the Cathedral)カテドラル」と呼び、社会における「支配的存在」とみなしている。これが「大聖堂」と呼ばれるのは、民主主義という思想が宗教性を帯びていて、あたかも神のように人々の信仰の対象となっているからである。進歩主義であり普遍主義である民主主義は、「惑星規模の神学にまで高められ、(大聖堂)による支配のなかで整理統合されている」(前掲書) そして民主主義の問題が、もっとも先鋭的な形で現れるのが、「人種」ないし「人種差別」に対してである。リベラルで民主主義的な考えによれば、人間は生まれながらに平等であり、人種の違いで差別することは許されない。
こうした考えは、現代社会では自明なことと見なされ、異を唱えることはなかなか難しい。
ここでランドが打ち出すのが、「生物工学的な地平へのアプローチ」である。具体的には、遺伝子を改変することで、人間のアイデンティティを動的なものにすることである。
白人ナショナリズムは、白人としてのアイデンティティ(生物的同一性)に執着することだ。だが、生物工学的に介入することによって、永遠不変のアイデンティティを改変することができるとしたらどうだろうか。こうして、「生物工学的分離主義は人種問題からの
イグジット
<出口)へと向かう」わけである。
生物工学的な地平へとアプローチすることで分離主義は、はるかに広く、そしてはるかに怪物的な方向性を引きうけることになる!すなわちそれは、新たな種の形成へと向かっていくのだ。(前掲書)
「暗黒の啓蒙」が加速主義として、どこへ向かっているかがわかるだろう。多様な人種の違いを否定したり、融合したりせず、むしろその差異を認め、さらに分裂・加速させることしこうした戦略ゆえに、ランドの「暗黒の啓蒙」は新反動主義に大きな影響を与えたのである。
左派加速主義とは
スルニチェクとウィリアムズが、すでに他の所で使われていた「加速主義」という言葉によって、あえて自分たちの思想を表明したのは、彼らが二〇一三年にウェブ上に発表し
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た「加速主義的政治宣言」によって、彼らの思想の広がりに火がついたからであった。
そこで、この宣言を取り上げ、彼らの加速主義の思想がそもそもどういうものであるか、確認しておこう。この宣言は、大きく分けて、三部から構成されている。まず、「0庁へ危機的状況」において、現代(二〇一〇年代初頭)の状況が歴史的に捉え直される。
基本的な枠組となっているのは、右翼-左翼の対立である。右翼には、「政府・非1政府・企業権力」といった諸勢力があり、その中心には「新自由主義(ネオリベラリズム)」がある。これに対して、左翼は、「ラディカルな思想」を失い、「実効性を失いたまま慢性的な麻薄状態」に陥っている。宣言は次のように述べる。
このまま左翼が根底的に新しい社会的・政治的・組織的・経済的なヴィジョンを打ち出せずにいれば、あらゆる明白な現実をものともせずに、右翼の覇権的権力がその狭強な想像力を推し進めていくばかりだろう。
ここから、「左翼が新たなグローバルなヘゲモニーを生み出す」にはどうすべきかが問われることになる。そこで打ち出されるのが加速主義であり、それについて「02
空位期間
加速主義について」で、説明されることになる。
すでに述べたように、加速主義を考えるとき、基本的に理解したいのは、「加速のアイデア」が資本主義と結びつくことだ。資本主義では、「競争にもとづく経済発展」が必要であり、そのため「技術的発展」が推し進められる。こうして、加速主義と資本主義と新自由主義が結びつく。
新自由主義の形態をとった資本主義が自認するイデオロギーとは、創造的破壊の諸力を解き放つことを通じて、技術的・社会的革新を絶えず自由に加速させていくことなのである。
こうした新自由主義的な資本主義の力動性を体現したのが、ニック・ランドの加速主義というわけである。これに対して、スルニチェクとウィリアムズは、「ランド流の新自由主義は速度(スピード)と加速(アクセラレイション)を混同している」と言う。なぜならランドの場合は、「操縦可能でもある加速」になっていないからである。
たちが今日の左翼内部に存在すると考えているもっとも重大な分裂は、一方における局地主義・直接行動・ひたむきな水平主義からなる素朴政治(folk politics)にしがみつく人々と、他方における抽象化・複雑性・グローバル性・テクノロジーからなる近代性と気軽に向き合う加速主義的政治(accelerationist politics)と呼ばれるようになるに違いないものの輪郭を描き出している人々との間の分裂である。
ここで「素朴政治」と呼ばれるのは、二〇一一年にアメリカで起こった「オキュパイ運動」のような、反格差・反グローバリズム運動である。
とくに、ロボットやAIも含めた機械の発展によって人間が労働から解放されること、これを彼らは、「ポスト労働の世界」と呼んでいる。しかし、通常ロボットやAIの進化は、人間から仕事を奪い、失業させるリスクを高める、と見なされているのではなかったか。
たとえば、二〇一三年には、オックスフォード大学の研究者たちが、次のような警告を出している。「将来のコンピュータ化によって、・・・・・・アメリカの全雇用のおよそ四七%にきわめて高い失業のリスクがある」。こうした機械脅威論は、一九世紀の「ラッダイト運動」以来、形を変えて何度も繰り返されてきた。
それに対して、スルニチェクとウィリアムズは、むしろ新たな社会を形成するチャンスと捉えるのである。人間の代わりに機械(ロボット・AI)が作動し、しかもいままで以上の生産力を生み出すのならば、むしろ望ましいことではないか。その分、人間は労働しなくてもよくなるからだ。労働しなくても、いまと同じ、あるいはもっと快適な生活ができるとすれば、批判したり憂慮したりする理由はないだろう、と。
もちろん機械化によって望ましい世界が広がるかどうかは、社会変革を起こせるかどうかにかかっている。現状の資本主義のままで機械化が進むのであれば、労働者たちは失業し、生活の糧を奪われてしまうだろう。機械威論が告しているのは、まさにこの事態だった。とすれば、社会をどのように変革していけばいいのだろうか。
これに対して、スルニチェクとウィリアムズは次のような方針(最低限の要求)を打ち出している。
1. 完全な自動化
2. 労働時間の縮減
4. 労働倫理の衰退
ここで言う「新しい実在論」は、いわゆる「ポストモダン」以後の時代を特徴づける哲学的立場を表わしています…・・・・。さしあたりは、「新しい実在論」とはポストモダン以後の時代を表わす名称だ、といった程度に受け取っておいてくださればけっこうです。(マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか』) 二人の当事者の発言から理解するかぎり、新実在論は、ポストモダンを乗り越える哲学として位置づけられている。そのとき問題となるのは、ポストモダンをどう考えるのか、という点である。「ポストモダン」は「近代(モダン)以後」を意味し、リオタールが「ポスト・モダンの条件』において「大きな物語の終わり」と規定したことで広く一般に知られるようになっ
構築主義こそが問題である
なぜ新実在論がポストモダンを批判したり、デカルトやカント、フーコーを持ち出したりするのだろうか。フェラーリスやガブリエルは、「構築主義(Konstruktivismus)」という言葉で次のように説明している。
分析哲学的な反実在論も、大陸哲学的な反実在論も、強力な理論的支柱は構築主義にある。構築主義は、近代哲学の主潮流をなしている。その考え方によれば、私たちの概念図式と知覚装置は、現実を構成するなかで決定的な役割を担っている。このような立場はデカルトに始まり、カントにおいて頂点に達した。その後、ニーチェによってニヒリズムへと先鋭化された。(マウリツィオ・フェラーリス「新実在論入門』)
厳密に言えば、ポストモダンで問題になったのは、相当に一般化された形態をとった構築主義にほかなりませんでした。構築主義とは、次のような想定に基づくものです。
こうした構築主義批判から、思弁的実在論の相関主義批判を連想する人も多いだろう。
構築主義が、人間(主体)が持つ概念や言語によって、世界が構築されると考えるのだとすれば、相関主義の言いかえにすぎないのではないか、というわけである。ところが、これについてはフェラーリスが次のように指摘している。
私の考えでは、近代哲学の基軸をなしているのは、メイヤス1によって問いに付されている「相関主義」ではなく、むしろ構築主義にほかならない。というのも、近代哲学のポイントは、たんに主体に相関する客体について考えることにではなく、主体による構築の結果として客体を考えることにあるからである。(『新実在論入門』)
フェラーリスによれば、主体に対して客体が相関するというだけでは、問題とはならない。というのも、メイヤスーが想定する「祖先以前的世界」でさえも、それを想定する時点で、主体と相関的だと言えるからだ。実
ティラノサウルスは、人間が存在する以前に生存したと考えられているので、「祖先以前的世界」の動物と言えるだろう。ところが、「ティラノサウルス」という名称自体は、人間が学問上名づけたものであり、人間に相関的であることは否定できない。人間が存在しなければ、「ティラノサウルス」という「名称」をもった動物は存在しなかった。しかし、だからといって、人間が存在する以前にティラノサウルス(という動物)は存在しなかった、とは言えない。
そこで、もし厳密に相関主義を理解するならば、「ティラノサウルス」は人間と相関的であって、人間が存在しなければティラノサウルスも存在しない、と言わなくてはならない。
しかし、これは奇妙なことである。この点を逃れるには、構築主義批判を採用せざるをえないだろう。「ティラノサウルス」は人間に相関的ではあっても、ティラノサウルスは人間によって構築されたものではない、という具合に
まず形而上学(古い実在論)の立場では、「ただ一つの現実的な対象、すなわちヴェズーヴィオ山だけが存在する」。それに対して、構築主義の立場では、「三つの対象が存在している」。
一つはアスリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、もう一つは私にとってのヴェズーヴィオ山、あと一つはあなたにとってのヴェズーヴィオ山だ。そうした現象とは別に、ヴェズーヴィオ山があるわけではない。
では、新実在論ではどうなるのだろうか。ガブリエルによれば、「このシナリオでは、少なくとも四つの対象が存在している」。それは次の四つである。
ヴェズーヴィオ山
パースペクティブ
ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アスリートさんの視点)
3
ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)
4ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)
この説明は、やや期待はずれかもしれないが、新実在論の特質をよく示している。
真実
習とは、とれか一つの立場を主張するのではなく、言ってしまえば、形而上学(古い実在論)も構築主義もすべて認めよう、という立場なのである。
構築主義を批判したからといって、構築主義が排除されるわけではない。構築主義が批判されなければならないのは、「構築主義の立場だけが正しい」と主張した点にある。これが新実在論のスタンスであり、このやり方は他の議論でも繰り返される。
そこで新実在論と、それ以外の立場を図示すれば、上のようになるだろう。
構築主義
図を見るとより明らかなように、新実在論は形而上学(古い実在論)にしても、構築主義にしても、その主張そのものを否定するわけではない。否定されるべきは、自分たちの主張だけが正し
新実在論
く、正当な説明だとする偏狭な態度であり、それこそが問題だというのである。
このやり方は、どんな議論も理解できてしまうガブリエルの知性の優秀さとも関係しているかもしれない。
たとえ読解がテクストの重複に甘んじるべきではないとしても、読解はテクストに背いてそれ以外のものに、つまり一つの<指示物>(形而上学的、歴史的、心理=伝記的、等々の現実)に向い、あるいはテクスト外の意味されるもの>この内実は言語の外に、つまりふつう言われる意味での文章表現一般の外に場をもち得るだろうし、もち得たであろうものなのだが1に、向うのは正当ではない。・・・・・・テクスト外なるものは存在しない。(「根源の彼方に」)
これは『根源の彼方に』の中にある文言だが、注意したいのはその文脈である。というのも、そこではルソーのテクストをどう理解するかについて、語られているからだ。
ところが、ポストモダン哲学では、この議論をデリダの意図を離れて一般化し、「解釈されたもの以外には何も存在しない」というテクスト主義へと拡張した。こうして、「テクスト外なるものは存在しない」というフレーズが、ポストモダン的な構築主義の典型的な標語となったわけである。
これに対して、フェラーリスは「ドキュメント性」という概念を対置している。だが、「テクスト性」と「ドキュメント性」はどう違うのだろうか。
私はものを三つのクラスに分類することを提案した。
1. 主観から独立して、時間と空間のなかに存在する自然的なもの
2. 主観に依存して、時間と空間のなかに存在する社会的なもの
3. 主観から独立して、時間と空間の外に存在する理念的なもの
つまり、「自然的なもの(natural objects)」「社会的なもの(social objects)」「理念的なもの(ideal objects)」の三つである。
この分類で、「ドキュメント性」に対応するのは、②「社会的なもの」である。つまり、「ドキュメント性」が語られるのは、社会的なものについてなのである。
この分類で注目したいのは、「主観に依存する」かどうかという観点である。フェラーリスによれば、自然的なもの(たとえばテーブルや椅子が挙げられている)は主観から独立して存在するのに対して、社会的なもの(たとえば結婚式や葬式)は主観に依存して存在する。また、理念的なもの(たとえば数や定理)は、主観から独立して存在する。
ここからわかるのは、実在論とはいっても、社会的なものについては、「主観に依存的」だと考えられていることだ。そのため、「ドキュメント性」という概念は、「弱いテクスト主義」ないし「弱い構築主義」を前提としている。それに比べ、ポストモダンによって実践されたのは、「強いテクスト主義」ないし「強い構築主義」であると、フェラーリスは言う。では、「強い」と「弱い」の違いはどこにあるのだろ
うか。
ポイントになるのは、「弱い構築主義」が社会的なものだけに限定されていることだ。自然的なものと理念的なものは、「主観に依存せず、独立して存在する」。ところが、ポストモダンの「強い構築主義」は、「実在一般(reality in general)」について構成的である。
たとえば、トランプ時代のアメリカでは、フェイクニュースや陰謀論が飛び交い、過激な新反動主義が叫ばれた。世界的な連帯よりも、「アメリカ・ファーストー」が強開され、過激な右派の人種主義が台頭した。こうして最近では「歴史の復活」が語られ、さまざまな価値の対立が生じるようになってしまった、というわけである。 とすれば、必要となるのは新型コロナウイルス感染症に対して、科学的・医学的な観点でのみ対処することではないだろう。ガブリエルは「新たな社会モデルが必要である」と言う。そこで、鍵となるのが前節でも触れた「道徳」なのである。
道徳的進歩がなければ、いかなる人間の進歩も存在しない。新たな啓家が始まろうとしているこの時代において、人間の進歩が成り立つのは、科学的・技術的な進歩と倫理的に支持できる目標をもった道徳的進歩とが協同するときである。コロナウイルスは、ずっと前から生じていたことを、単にいっそう明白にしただけである。つまり、私たちはクローバルな啓装という新たな理念を必要とする、ということだ。(「暗い時代における道徳的進歩」)
なるほど、だが今日必要となる「グローバルな啓蒙」とは、どのようなものだろうか。
ガブリエルは、次のように述べている。
ここでペーター・スローターダイクの表現を用いて、新たに解釈してみよう。私たちが必要とするのは、コミュニズム(共産主義 Kommunismus)ではなく、コイミュニズム(共免疫主義 Koimmunismus)である。私たちを国民文化、人種、年齢集団、階級などに分け、互いに対抗させるようにけしかける精神の毒に対して、ワクチンを接種しなくてはならない。(前掲書)
ここでわかりにくいのは「共免疫主義」という概念だろう。「共免疫主義」における「免渡」は、医学的な免疫というより、「精神の毒」に対する免疫を指している。つまり、ガブリエルは世界で散化している対立・差別・暴力などに対する、集団的な精神の免疫が必要だということを述べているのである。